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岩瀧寺における精神病治療

はじめに

「精神病院は怖いところだと思ってました」看護学生がよく言う言葉です。彼らは実習を通して、怖い・暗い・汚い等といったそれまでの精神科病院のイメージから脱却し、新たな意識をもって精神科病院や精神病者と向き合うようになります。しかし、そもそも「精神病院は怖いところ」だと認識させるきっかけは何なのでしょうか。
それは精神病者という自分とは異質な(と思い込んでいる)者に対する無知であり、精神科病院が不可視化されていることではないかと思いますが、それ以外にもさまざまな理由があると思います。その理由を考えていくうちに、そもそも「病院がない時は精神病者はどのように生活していたの?」という単純な疑問をもつようになりました。そこで、精神科病院ができる前の精神病者の在りようを知ろうと思い、フィールドワークを始めたのです。
兵庫県丹波市に香良病院という単科の精神科病院があります。2009年に個室を揃えた新しい病棟も完成し、自然豊かな環境でゆっくりと落ち着いて療養できるようになっています。この病院の隣には岩瀧寺(現在は岩龍寺と表記)というお寺があります。調査を進めていくうちに、岩瀧寺で大正期から昭和初期にかけて、瀧治療を中心とする精神病治療が行われていたこと、そしてその瀧治療が変容しながら近代西洋精神医療に取り込まれていったことが明らかになりました。


 そこで今回は、岩瀧寺での精神病治療の歴史――そのはじまりから病院設立まで――をご紹介したいと思います。

三浦藍(みうらあい)

三浦藍(みうらあい)
神戸市看護大学健康生活看護学領域(精神看護学)助教
立命館大学大学院先端総合学術研究科 博士過程
◎熊本県出身。3年間の病院勤務の後、 大学へ。現在はもっぱら学生と楽しく実習に出かける日々を 送っています。写真はフィールドワーク御一行の図(右から 2番目が著者)。地元の皆様の協力で楽しく、美味しいフィー ルドワークを行っています。丹波は黒豆以外にも美味しいものがいっぱいです。皆様ぜひ一度丹波路へ♪
●神戸市看護大学
〒651-2103 神戸市西区学園西町3-4


岩龍寺の歴史と精神病治療のはじまり

 まず岩瀧寺とはどのような寺であったのかを簡単に説明しましょう。岩瀧寺は弘仁年間(809~923)に住吉神社のおつげを受けた嵯峨天皇が、弘法大師に命じて立てさせた七堂伽藍がはじまりとされ、長らく修験道の修行の場であったようです。また丹波史年表には慶長19(1614)年に当時の領主北由良別所重治の娘の眼病を治療したという記述もあり、不動尊を祀り、護摩祈祷によって病気を平癒する場として定着していたこともうかがえます。しかし、徐々に荒廃し、廃仏毀釈後 は廃寺となっていました。
それを復興したのが大正初期に播磨から住職としてやってきた浅山英雅氏です。浅山氏は村人と協力して新たに山門や鐘楼を築きました。大正3(1914)年4月に行われた落慶法要は3日をかけて盛大に執り行われました。そして、この浅山氏が始めたのが祈祷と瀧行を中心とした精神病治療です。浅山氏の治療には修験道の修行が影響を与えていたと考えられます。患者は播磨や播州の出身者が多かったようですが、京阪神地域からも多くが治療に訪れていました。


小林慈海氏の精神治療

 浅山氏の瀧治療を引き継ぎ、発展させたのが小林慈海(1882~1945)氏です。小林氏は高野山専修学院卒業した後、播磨の滝野光明寺にて得度、下久米の浄泉寺にて修行をつんでいましたが、浅山氏が隠居するにあたり、大正9(1920)年頃に家族とともに岩瀧寺に越してきました。光明寺ではなく岩瀧寺の跡継ぎになることを決断した理由の一つは、精神病治療に興味があったからとも言われています。
小林氏の治療は、対象や期間、方法などを具体的に定めたものでした。まず、対象者ですが、精神病者(統合失調症患者?)に限っており、当時蔓延していた梅毒、また癲癇やアルコール中毒の人は断っていました。また、暴力のある人も断っていましたし、3回来て治らない人も「滝では治らない」と言って断っていました。その結果、対象となる人は17~25歳くらいの女性が多かったと言われています。初婚年齢の低かった当時、1人目の子どもを生んだばかりの人なども多く、農閑期である冬から春にかけて最も患者数が増加したということでした。
小林氏の基本的な治療方針は「念力で治す」というものでしたが、患者や家族に勤行をさせるのではなく、小林氏が毎朝勤行をし、半年に一度は患者の名前を護摩木に書いて護摩供養をするというものでした。患者は毎日山腹にある不動尊に参拝することと、1日2回の瀧治療を受けることが日課でした。しかし、雨の日はあまり行わなかったり、病弱な人は免除されたり、とかなり融通がきいたようです。

[図1]瀧に打たれる精神病者
[図1]瀧に打たれる精神病者
[図1]は実際の瀧治療の写真です。瀧治療と言っても直接瀧に打たれるのではなく、瀧の下流から孟宗竹を用いて引いてきた水を後頸部(盆のくぼ)に当てています。患者は裸の上に油紙製の雨合羽を着用しています。打たれる体勢としては中腰、立位、座位のいずれかとされていたようですが、中腰が一番多かったそうです。左手に見える灯篭のようなものが蠟燭台で、ここに蠟燭を立て燃え尽きるのまでの15分程度が、1回に打たれる時間でした。それを1日2回、概ね10時と15時に行っていたそうです。
岩瀧寺は夏でもヒンヤリとした渓谷に立っています。冬には雪も積もります。そのようななかで油紙合羽だけで瀧に打たれるというのは、さぞかしつらいことだったのではないかと思います。実際、治療に来た患者達も最初は強く嫌がったそうです。患者が嫌がる場合は、瀧添人と呼ばれる地元の有志が患者を両側から抑えて瀧に打たせることもあったといいます。ただ、そのような患者も日がたつにつれ、症状も落ち着き、自ら瀧に打たれるようになり、そうなれば瀧添人は見守りをするだけとなったそうです。また、瀧添人は患者が瀧に打たれているあいだ般若心経を唱えていました。
このような参拝と瀧治療以外にはさして何かをすることもなく、禁酒、禁煙で火と刃物に気をつける以外は自由開放の状態で、患者は付き添いの家族(小林氏は母親の付き添いを必須としていた)とのんびりと過ごすことができていたと思われます。


岩龍寺の治療効果

 このような治療の結果はどうだったのでしょう。小林氏のご子息によれば、寺で治療をしていた時代、患者は「本当によく治った!」といいます。治療期間は2週間から半年とまちまちでしたが、概ね1か月程度でした。
薬もない時代に、患者が落ち着いた理由とは何でしょうか。推測でしかありませんが、家や地域のしがらみを離れて、ゆっくりと休息すること、母親の注目を集め、濃密にかかわる時間がもてることの2つが大きな意味をもっていたのではないかと思います。
当時の日本は、今よりもずっと家の役割が大きく、また大家族であることが一般的でした。また、共同体としての地域の結びつきも強く、それに付随する役割も多かったと考えられます。患者にとっては、これらのことは、サポートを得やすいという利点もありますが、結びつきや役割自体がストレスになったとも考えられます。岩瀧寺は、役割や仕事を放棄し、周囲の目を気にすることなく療養できる環境を提供していたといえるでしょう。また、母親の、家での仕事量も多く、兄弟も多数いることが多かった時代、母親と向き合い、あるいは甘えられる時間や環境はなかなかもてなかったと考えられます。岩瀧寺は、親子に向き合う時間と場所を提供し、その場を与えられることで患者は落ち着きを取り戻すことができたのではないでしょうか。
小林氏は、患者が治ったとする基準を「羞恥心が出ること」と「金勘定ができること」の2つとして、ある程度症状が落ち着いた患者に村まで買物に行かせ、無事買物を終えて帰ってくることができれば、「患者は治った」として家に帰していました。また小林氏のご子息は、少年時代に、瀧に打たれる女性患者を覗きに行って見つかった時に、患者が恥ずかしがるそぶりを見せたことで、家族が「娘が恥ずかしがるようになった」と非常に喜んだことを覚えていると話してくださいました。
この「羞恥心」と「金銭管理」という感覚は、現代の精神障害者の社会復帰においても非常に重要なポイントになっています。80年前の薬のない時代にこの感覚をもって治療を行っていたことに驚くと同時に、この感覚がどこで一旦途切れてしまったのかということが新たな疑問となって生じます。


地域における岩龍寺と精神病者の扱い

[図2]丹波新聞より
[図2]丹波新聞より

 大正末期から昭和6(1931)年頃まで、岩瀧寺における精神病治療は隆盛を極めます。ここでは当時の新聞記事を手掛かりに当時、岩瀧寺がどのように地域や社会で扱われていたのかを見ていきましょう。[図2]は昭和7(1932)年1月10日の丹波新聞に掲載された記事です。以下に全文を記述します。


『精神病の一青年 憐れ寒さの為に凍死 成松町で斃死する』 香良不動尊にお救いを求める為 昨年九月頃より籠居していた原籍兵庫県加古川群□□村□□□□(二七才)は口口県□□小学校の教員を奉職中過度の勉強の為に神経衰弱となり、名刹香良不動尊のお瀧に打たれてその加護を受けていたが精神に異常を来している若者は去四日午後九時より同居家人の熟睡中を見計らい家出、成松町方面に来り寒風一入り激しい四日の夜、真裸体になって町内を浮浪中衰弱し切った体に極度の寒さが加はり遂に成松町西念寺町で凍死した。一方付添の家では家出と知るや百方に捜査の手を配したが方面違いの捜査に遂に発見する事が出来ず翌五日未明頃西念寺町付近の人によって此の醜肢が発見され急を付添人に通知し身柄は早速駆けつけた両親によって郷里加古郡に送り届けられた、年尚若き青年がこの惨状を以て一風の霞と散ってしまった事は見る人々のたもとを絞ったことであった。
※□は筆者により伏字。


[図3]丹波新聞より
[図3]丹波新聞より

 この記事から岩瀧寺において瀧治療を中心とした精神病治療を行われていたという事実が裏づけられると同時に、付添いの家の者が患者を探して回るなど、精神病者の看護そして監護を地域の住民が担っていたことがうかがえます。先に挙げた瀧添人以外にも地元の人々は岩瀧寺の瀧治療に協力してきました。特に昭和5(1930)年に新たな療養所が設けられてからは家族の付添は必須ではなくなり、患者には賄い婦や世話人がつけられるようになりました。
このように岩瀧寺は、精神病者を治療する場所として社会に認識される一方で、別の一面も特っていました。[図3]のなまめかしい写真は昭和5年7月1日の丹波新聞に掲載されたものです。このグラビアアイドル(?)のような被写体は当時、丹波で大人気の芸者、成松町ひさごやの富子さんです。写真横には「夏に涼し瀧しぶき」「幸世村香良の瀧にて」とあります。また、桜の名所として紹介してある記事もありました。このように岩瀧寺は地元の人々の憩いの場という一面ももち合わせていたのです。
このことから、精神病者との妙な距離感ではなく、精神病者を共に生きる人々として認めるおおらかさを感じ取れるというのは、いささか大げさかもしれません。しかし、少なくとも患者達は隠された存在ではなく、村の中で、また社会の中で共生していたのではないかと考えられます。


第1期 寺から病院へ

 このように隆盛を極めた岩瀧寺での精神病治療ですが、昭和ひとけた代後半より徐々に内容が変容していきます。昭和7年に大阪の宝石商が娘の精神病が治癒したお礼として、それまでの5軒長屋の隣にスレートぶきの2階建で出入り口に外から鍵をかけられる療養所を建設しました。また、それに伴って、前述の瀧添人以外にも、賄い婦や世話人として村人が療養に関わるようになり、家族が付き添う必要はなくなり、家族は岩瀧寺まで患者を送り届け、小林氏との面接で入所が決まれば、患者を預けて帰るようになりました。患者は、母親と開放された空間で休息するのではなく、管理された療養所で1人で生活することになったわけです。

[図4]神戸又新日報より
[図4]神戸又新日報より
小林氏のご子息は、スレートぶきの療養所となってから、患者はなかなか治らなくなったと話されました。そして、おそらくこの「鍵のかかる療養所の建設」が、(建てた当事者も周囲もよかれと思っての行動だったにせよ)、現代的に精神病者を管理し始めたきっかけだったのではないでしょうか。また、ご子息によれば、この時期から、療養に来る患者の氏名、年齢、住所や療養期間、転記等を村の駐在に届けなければいけなくなったとのことであり、精神病者の管理が社会的に構築されていったことの裏づけにもなっていると考えられます。
[図4]は昭和5年8月11日の神戸又新日報(現・神戸新聞)の記事ですが、これによると「狂ひが妙に直る瀧 香良不動に病院を建てる案」という見出しのもと、「香良不動尊のもとにあるその瀧は独鈷の瀧と呼ばれているが、狂いが奇妙に此の瀧に打たれると治癒するというので、狂いの訪客がとても多く四時跡をたたぬ、というので狂い病院をこの川元に建てたらどうかという議案が今季議会に提出されているという話だ」とあります。また、小林氏のご子息は、昭和8(1933)年に「神戸に天皇の行幸があるから」という理由で、駐在と柏原の警察署長が「(精神病者の)病院外収容をやめるように」という通達を持ってきたことを記憶されています。結局、この通達がきっかけで、岩瀧寺での瀧治療は下火となり、病院建設が推進されていくことになります。


香良脳病院設立

 前述の流れを受け、昭和12(1937)年6月に兵庫県知事の認可を受け、石井鹿蔵氏を代表とする村の有力者7名の合資により香良脳病院が設立されました。これが丹波における西洋精神医療の始まりです。実は、岩瀧寺での精神病治療は病院設立で終止符を打つのではなく、変容し、西洋精神医療に取り込まれていくのですが、その話はまたどこかでご紹介できればと思ってます。


終わりに

 以上が、私のフィールドワークの紹介です。私はこの調査を通して、「昔は良かった」とか「今の方が良い」とかそういう議論をしたいのではありません。ただ、過去を知ることで見えてくる今もあると思います。
精神医療に携わる者として、私は過去からの光で現在の精神医療を捉え直してみたいと思うのです。フィールドワークに出ることで自分の疑問に誰かが応えてくれるわけではありません。ただ、調査を通して多くの方にお話を伺うなかで、文献の海に溺れたパズルのピースが1つ1つ徐々に合わさって新たな絵が見えてくるように、事実と事実がつながり新たな景色が広がっていく楽しみは一度味わうとやめられません。みなさんも一度フィールドワークに出かけられてはいかがですか?


 最後になりましたが、本調査に協力していただいた生村吾郎先生、丹波市郷土史家の八木甫瑳子先生、丹波市保健師の蘆田浩美氏、同福祉課の荻野雅文氏、小林慈海氏のご子息である小林英哉氏、そして香良病院院長石井敏樹先生に、心より御礼申し上げます。


参考引用文献

足立常雄,『精神病の新療法』,肇書房,1943年
神戸又新日報,1930年8月11日
丹波新聞,1932年1月10日
丹波新聞,1930年7月1日
吉田貴子・岩尾俊一郎・生村吾郎,「近代における「民間」精神病院収容施設の実像」,『精神医療』4(10),批評社,p34-55,1993年